傍らに寄り添う動物 大江健三郎『万延元年のフットボール』論

本稿の目的は、大江健三郎の『万延元年のフットボール』における《動物》の表象に着目し、先行言説の欠落を補うことである。まず、この小説に主体の解体を読み取る立場については、その先に出現する《動物》同士の依存関係を取り逃していることを指摘した。次いで、歴史と記憶に着目する読解が、歴史学の現在の知見との共通性を強調するあまり、この小説が、ベトナム戦争期の日米関係を背景に、主権が《動物》を抑圧するメカニズムを描いているのを見過ごしているのではないかと指摘した。さらに、蜜三郎と鷹四のあいだで優劣を定めようとする読解が、鷹四が見せた《動物》的な苦しみを軽く見積もらせ、赦しという重要な主題を捉え損なっているこ...

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Published in日本近代文学 Vol. 94; pp. 107 - 122
Main Author 村上, 克尚
Format Journal Article
LanguageJapanese
Published 日本近代文学会 15.05.2016
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ISSN0549-3749
2424-1482
DOI10.19018/nihonkindaibungaku.94.0_107

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Summary:本稿の目的は、大江健三郎の『万延元年のフットボール』における《動物》の表象に着目し、先行言説の欠落を補うことである。まず、この小説に主体の解体を読み取る立場については、その先に出現する《動物》同士の依存関係を取り逃していることを指摘した。次いで、歴史と記憶に着目する読解が、歴史学の現在の知見との共通性を強調するあまり、この小説が、ベトナム戦争期の日米関係を背景に、主権が《動物》を抑圧するメカニズムを描いているのを見過ごしているのではないかと指摘した。さらに、蜜三郎と鷹四のあいだで優劣を定めようとする読解が、鷹四が見せた《動物》的な苦しみを軽く見積もらせ、赦しという重要な主題を捉え損なっていることを主張した。最後に、翻訳に着目する読解は、最終的に、人間/動物という境界線を越えて、傷つきやすいもの同士が身体のレヴェルで生じさせる共振への着目へと至るべきこと、その次元にまで降りて初めて、《主権》=《主体》の暴力の乗り越えと、赦しへの共同的な歩みが可能になることを論じた。
ISSN:0549-3749
2424-1482
DOI:10.19018/nihonkindaibungaku.94.0_107