弥生土器における覆い型野焼きの受容と展開 西日本を中心に

弥生時代における水稲農耕の本格的な導入にともない,イネ科草燃料などを用いて覆いをする土器野焼き方法の導入されたことが,これまでの研究のなかで明らかにされている。この野焼き方法は,時間をかけて温度を上昇させ,安定した火回りで土器を焼くことができる点で,縄文時代の開放的な野焼き方法と異なるだけでなく,水田開発によって切り開かれた環境とうまく適応するという点で優れた野焼き方法であった。では,水田の定着しつつある列島において,この野焼き方法はどのように受容され展開していくのだろうか。本稿では,このような課題について,西日本を中心とした資料を検討し考察をおこなった。 具体的な方法としては土器焼成時に付着...

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Published in日本考古学 Vol. 13; no. 22; pp. 1 - 14
Main Author 長友, 朋子
Format Journal Article
LanguageJapanese
Published 一般社団法人 日本考古学協会 01.11.2006
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ISSN1340-8488
1883-7026
DOI10.11215/nihonkokogaku1994.13.22_1

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Summary:弥生時代における水稲農耕の本格的な導入にともない,イネ科草燃料などを用いて覆いをする土器野焼き方法の導入されたことが,これまでの研究のなかで明らかにされている。この野焼き方法は,時間をかけて温度を上昇させ,安定した火回りで土器を焼くことができる点で,縄文時代の開放的な野焼き方法と異なるだけでなく,水田開発によって切り開かれた環境とうまく適応するという点で優れた野焼き方法であった。では,水田の定着しつつある列島において,この野焼き方法はどのように受容され展開していくのだろうか。本稿では,このような課題について,西日本を中心とした資料を検討し考察をおこなった。 具体的な方法としては土器焼成時に付着する黒斑を観察することで,黒斑の形態によって焼成時の燃料などの土器周辺の状況を解明し,さらに黒斑の有無や位置によって,土器の置き方を推定した。このような視点から検討すると,以下のような結果が浮かび上がってきた。(1)薪燃料の変化が少なくとも西日本で共通していた可能性の強いこと,(2)土器設置角度において弥生時代中期にもっとも地域性が強まること,(3)焼成時の土器設置角度において,弥生時代後期から終末期へと連続する岡山平野に対し,大阪湾沿岸地域においては,後期から続く伝統的な甕と器壁の薄い庄内型甕や布留型甕とでは違いがあり,生産(焼成)の場が異なる可能性があること,(4)弥生時代後期から積み重ね焼きがはじまり,素朴ではあるが土器生産の効率化への胎動が認められることである。そして,このような変化は,単なる焼成方法の変化にとどまらず,粘土紐積み上げから調整・装飾を経て乾燥にいたるまでの土器製作技術と密接に連動して引き起こされていると考えられるのである。
ISSN:1340-8488
1883-7026
DOI:10.11215/nihonkokogaku1994.13.22_1